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2018-07-01

福島大神宮

松前藩本陣があった法界寺に隣接していて境内には砲台跡がある。



すぐそこには海。
とても見晴らしのいい場所でそりゃ砲台置くよな。ってのが感想w

法界寺

当時、鈴木織太郎を隊長とする松苗藩の本陣が置かれていた場所。
すぐ後ろには砲台場がある。


11月2日午後3時頃に戦闘開始。
正面から彰義隊。左右から額兵隊の攻撃により松前藩は総崩れに。
隊長の鈴木が負傷により夕方には敗走しその際、付近の民家に火を放って行った。(なんてこった)
見事勝利し、この後は敵襲が無いとした土方軍はそのまま宿陣し疲れを癒したそうです。


この戦いで彰義隊隊士の毛利秀吉は先陣を切り、馬で山門から突入するが銃弾を受けて亡くなりました。

このお墓は会津遊撃隊の諏訪常吉が建立したものと言われています。


そしてこの毛利秀吉さん。

なんとあの稲本楼の小稲さんと恋仲との噂があるお方なのです。
小稲さんといえば思い浮かぶ人が一人いるでしょう?
そうです。
みんなご存知、伊庭八郎君ですよ!!

ちょっと小稲さん何してんのー!ってなるけど彼女も仕事なんです!仕方が無い!(ゎ)


そんな秀吉さん、小稲さんに小遣いを無心しすぎて愛想つかされてしまったみたいで。

女にせびったら駄目でしょう。
まぁ、50両出してもらった人もいますけどね。ww



〒049-1312 北海道松前郡福島町福島242





建有川寨門跡

知内と木古内の境目にある番所。
知内側に松前藩、木古内側に箱館奉行所の番所を設けて通行人の手形や荷物検査をしていました。

明治元年11月1日(12月14日)に五稜郭から松前に向け進軍していた土方率いる松前攻略軍が通過した。




建有川寨門跡(たてありかわさいもんあと)
国道228号線をまっすぐ走っていくと木古内と知内の境目にでっかい↑が見えるからわかりやすいかも。


戸切地陣屋跡

松前藩が幕府の命令で作った陣屋。

大野の戦いで旧幕府軍が陣屋に近づく前に松前藩自ら焼き払い撤退。
その後到着した大鳥隊は追撃せず、残った米や大砲を持っていった。






復元された表門


中はこんな感じ


陣屋を囲む土塁も空堀も綺麗に残っています。


函館にある四稜郭よりも少し広い印象でした。
桜の観光名所としても人気がある場所です♪

■北斗市野崎66

五稜郭タワー

五稜郭の横に聳え立つタワー
タワーの横には供養塔があります。


アトリウムには素敵な土方さんの像が!!


いつ行っても銅像だから変わらないのに毎回撮ってしまう。仕方がないだってかっこいい。
一度、イルミネーション時期に行ったら違う雰囲気の歳さんが!!


これを我々は「エレクトリカル歳三」と呼んでます。←


タワーの上から見た五稜郭はこんな感じ。
明け方の五稜郭とかレアです←
(元旦は午前6時から営業)



タワーの上にも歳さんが!!


他にも歴史を再現したミニチュアとか色々あって面白いです♪
あとタワーにある占い機!めっちゃ当たる(笑)

五稜郭






安政4年に武田斐三郎の設計によって着工し元治元年に完成した西洋式城郭。
桜の名所としても有名ですね♪

10月26日(12月9日)に裏門から入城



七重村、川汲峠と敗退した箱館府は勝ち目が無いと判断し前日に汽船で青森へ。

もぬけの殻になった奉行所内には泥棒に入られた形跡があったとか。
無血入城しおまけに箱館府が弘前藩から購入していた兵糧庫の三千俵の米もゲット★


今も現存している兵糧庫の内部


米はもうありませんでした(←)



復元された箱館奉行所
中は資料館になっている。


この部屋のどこかに負傷したイバハチが‥‥!!
部屋の場所がいまだに特定できず。
台所か?女中部屋か?←
同じく負傷した陸軍隊の春日左衛門と相部屋で養子の田村銀之助が看病していたっていうんだから肩身が狭くて仕方が無かったろうに。イバハチが早く戦場復帰したがっていた理由のひとつだったりしてw
色んな噂があるからね。だって養子にした理由が(自主規制)
銀ちゃん美少年だったらしいし仕方が無い!
そんな春日さんが埋葬されたというのが五稜郭の表門から北東方向の土塁に埋葬され大正15年にご遺族の元へ帰っていきました。


そして未だに帰る事の出来ない永遠の迷子。伊庭八郎君は大正7年頃の調査で表門より南西方向の土塁に埋葬されたと伝わっています。(諸説有り)
だとしたら迷子じゃない?遺骨は何処へ?
‥‥はい。迷子ー。
だから!あれほど!!迷子札は肌身離さず持ちなさいと‥!!!←誰

死因も諸説ありますがモルヒネ服毒説が有力みたいです。
命日も5月12日と墓石には刻まれていますがこれも諸説あるようで。
ごたごたしていた時期だから色んな人の色んな記憶が混濁してしまっているのでしょう。
有名な話の一つに「八郎君の墓は函館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍らにあり」とあるのですが‥あの、何と言うか‥ありがとうございます!!←

でも歳さん、別の場所に埋葬された説も多々あるんだよね。

何年か前に五稜郭に行った時にボランティアガイドのおじさんと話としていたのですが
「何年もここでガイドしているが伊庭八郎が好きな人と会ったのは初めてだよ」
といわれたのが衝撃過ぎて‥確かにまわりに知っている人居ないし知名度低め(←)だけど初めてって!!!
今は某乙女ゲームとかにも出てきて少し知名度上がってきていると信じています。

■函館市五稜郭町44


川汲峠

南茅部から函館へ向かう途中にある川汲峠。
土方隊が宿陣した場所で有名ですね!

10月24日(新暦12月6日)に到着
額兵隊隊士数名を斥候として温泉場まで派遣したところを偵察にきていた新政府軍が攻撃を仕掛けてくる。
連絡を受けた星恂太郎はすぐに兵を率いて温泉場まで向かうが到着した時には敵は山頂に移動した後だった。
本道と間道の二手に分かれ進むと、本道組みは敵の高い位置からの攻撃に動けなくなってしまった。
そこに間道組みが敵の背後に回りこみ小銃で攻撃。そのまま本道組も攻め上り形勢逆転された敵軍は逃走した。


ここからのね、逸話が好きなんです。。


勝利した後、悪天候の山頂に陣を張るのは困難だと湯元の本陣に戻り報告。
報告を受けた星恂は
「ちょっと!川汲峠は東蝦夷三嶮だそ!?そこを守れば万全なのに!たまたま敵が弱かったからこの嶮を得ることが出来ただけで実力で手に入れた訳じゃないのになんで麓に宿陣するんだよ!後で奪われて臍を噛むんでも手遅れなんだからな!!!」(ざっくり噛み砕いてお送りしております)
と激怒。
部下を怒鳴りつけた後、自ら峠に上り野営を敢行したという‥

星恂かっちょいーーーー!!!
仙台藩士かっこいい
本当かっこいい
( ゚∀゚)・∵. グハッ!!


そんなこんなで(←)疲れ冷えた身体を温め癒したのがこの川汲温泉なんですね!!




この慰霊碑は川汲温泉ホテルの敷地内にあります。
峠のカーブを越えてすぐの所にあるので初めて行った時、うっかり通り過ぎt

川汲温泉ホテルで温泉入ろう!土方さんと同じお湯に入るんだ!!(※土方成分は残ってません)と意気込んで向かったのですが、

入り口には「休業中」の文字が

ガー-ーーーーン

いつかきっとリベンジしてやる。
だがしかし閉鎖したという噂もちらほら‥‥

近くに砲台跡が残る台場山があるのだがまだ登ってません。
いつか登りたい。
だが気力がない←

■函館市川汲町2019


蝦夷地南部藩砂原陣屋跡

鷲ノ木から上陸した後、隊を二手に分け進軍。ここからは土方ルートでお送り致します★

森町から鹿部町に向かう途中の国道278号線を辿ると砂原町役場を少し越えたあたりに
あります。


鹿部方向に向かって左側
大き目の看板があるのでわかりやすい♪






ぐるっと囲まれた今も残る土塁に胸熱!




土方隊がここに着いた時にはもう建物はなく土塁だけだったそうな。
ここら付近で宿陣したらしい
野晒しだけど土塁で少しは吹雪凌げたのかな‥‥
ちなみに戊辰戦争勃発時にここに駐屯していた藩士たちが解体して本国へ引き揚げていった。

くっそ
残してくれれば良かったのに!!
って思うけど仕方がないよね。色々と。

そして砂原は翌年の4月に仙台藩士二関源治率いる見国隊が上陸した場所。
三百五十余人の援軍!ありがてぇ。。

■砂原町四軒町200 (国道278号線沿い)